Art Morpho アートモルフォ

丹波の郷

2017年9月

丹波竜
 近年、我が国でも各地で恐竜化石が発掘され、話題となっています。有名なところでは福井県勝山市。多くの恐竜化石が発掘され、立派な恐竜博物館までできています。
 ここ丹波でも、平成18年、恐竜化石が発見され、発掘調査が進むにつれ多くの骨格が発見されるに至りました。日本で発見される恐竜の化石の多くは、歯や爪、骨の断片などで骨格が揃うというのは非常に稀有なことのようです。丹波市も気合が入ったようで、発見された恐竜に丹波竜と名付け、「ちーたん」という愛称も付け売り出し中です。
 私もコレクションに化石を入れているように、これを見逃すことはありません。以前には発掘現場も見に行き、今回ご紹介する「ちーたんの館」にも何度か伺いました。縁あって丹波に住むようになったので、このコーナーでご紹介しようと再度、夏休みが終わったのを機に伺ってみました。
 久しぶりの再訪で、建物そのものは変わっていないのですが、丹波竜が壁から首を出しているではないですか。なかなかおしゃれなデコレーションに驚きました。丹波市もやる時はやるなぁ~。  早速中に入ると、丹波竜の全身骨格がお出迎え。以前とは全く展示内容が変わっている。これなら入場料とってもいいか。初めのころは発掘された骨の化石がいくつか置いてあるだけで、石ころを見ているだけ、といった感じでした。
 現在までに発掘された部分も分かりやすく示され、納得。肋骨や背骨もかなり見つかっている。さらに発掘が進めばより多くの部位も出てくるのでしょう。また、そのほかの発掘化石も展示され、今後の調査が楽しみであり、ひょっとすると、この地は化石の宝庫かもしれないと予感されます。
 最後に丹波竜が眠っていた地層、篠山層群(地質図の薄紫色の場所)を片っ端から掘ってくださいとお願いしておきます。

2017年7月

ヒメボタル
 ゲンジボタルやヘイケボタルはよく耳にしますが、ヒメボタルって知っていましたか。恥ずかしながら、私も名前こそ知ってはいましたが、見たことはありませんでした。
 偶然にもこのヒメボタルの観察会を知り、早速出かけてみました。観察会のネーミングが「ヒメボタルみい」。「みい」が「お花見」の「見」の意と気付くのに、しばし時間がかかりました。ほのぼのとしてとってもいいネーミングだと思います。
 さて、当日、暗闇の迫った午後7時半ごろ、現地に着くともう大変な人だかり。観光バスまで来ている。車を指示に従い脇道の路肩に止め、広場へと向かうと、すでに講習会が始まっています。ここ、丹波市青垣町の稲土地区は兵庫県下最大のヒメボタルの生息地らしい。これは期待できそうです。

 午後8時過ぎ、先遣隊のホタルが飛び出したとの報告で、一斉に動き出したのだが、主催者のヤマビルの忌避スプレーをしてくれるとのアナウンスで皆さんUターン。しかし、こんなに大勢で登って行ったら、ヒルだって目移りしてしまうと思う。
 私は、解説者について先に進む。川沿いの道を進むとすぐにこれがヒメボタルとの説明。 小さい光ながらもはっきりとした強い光である。さらに進むと、右手の川沿いにはゲンジボタルの黄色味を帯びた大きな光がゆっくり明滅しながら飛び交っているが、反対側の木立ちの中にはLEDのような白色の小さな光が電飾のようにせわしなく点滅している。進むにつれ、数十が百を超えるような光の明滅になり、解説者も興奮気味。今日は本当に発生のピークのようです。
 途中、参加者たちの懐中電灯の光や、スマホの光が邪魔になり、人混みを離れヒメボタルの明滅を一人楽しむ。ゲンジボタルのような華やかさはないが幻想的でちょっと感動。  一人、暗闇を降りてくると、登ってくるときには気付かなかったが、三脚を立て、ヒメボタルの乱舞を写真に撮ろうというカメラマンが何人もいる。昔、一眼レフカメラでゲンジボタルを撮りに行ったことが思い起こされる。今手元にあるデジカメではただの暗闇しか写らない。ここで、ヒメボタルの光の競演をお見せできないのが残念です。
 ここ稲土地区は地元の人たちによって大切に守られているようで、いつまでもヒメボタルの楽園であって欲しいものです。来年は友人たちにも声をかけてこの感動を、共有したいと思います。
 PS ネットでヒメボタルの写真を探しましたが、その光がみんな黄色く写っています。本当は白色に近いですよ。なかなかヒメボタルに出会う機会はないと思いますが、チャンスがあれば是非見てください。一見の価値はありますよ。

2017年5月

独鈷の滝
 県道7号線を走っていると、大きな看板が立っている。「独鈷の滝」入口である。目立つ看板であり、丹波に来た頃より気になってはいましたが、それ以前には全く知りませんでした。季節も新緑の候、遅ればせながら行ってみました。  矢印に従って2キロ余り、行き止まりが岩龍寺である。立派な鐘楼門で驚く。車を止め、滝を目指す。お決まりの動物除けの鉄柵を通り整備された山道を登る。すぐに左手に滝が現れる。最近まとまった雨が降っていないので、水量は少ないが想像していたよりは立派な滝である。岩龍寺のホームページによると落差20メートルとのこと。  滝のさらに上へと急階段が続く。不二の滝へとの看板に登ってみることにする。階段を上がったところに、弘法大師自らが彫ったと伝わる不動明王が祀られた祠がある。合掌。  階段も途切れ、山道を登ると二手に分かれる。右手に行くと五台山、左手が不二の滝である。危なっかしい細道が続く。現われたのは滝というよりスロープを流れ下るといった感じである。先ほどが雄滝、こちらが雌滝と言われるのがよくわかる。さらに道があるようなので倒木を越えたらすぐ行き止まり、しかしその先に見えたのは折り重なる流木のダムのような光景である。ここでやっと気づく。駐車場から続く道にしろ、滝の周辺の階段にしろ、みな真新しく最近に整備されていた理由が。三年前の水害でここにも大きな被害があったことが。幸いお寺には大きな被害があったようには見えないのは、やはり御大師様のご利益なのか。改めて、合掌。

左「岩龍寺の山門」、右「滝へと続く道」

左「独鈷の滝(雄滝)」、右「不動明王拝殿」

左「不二の滝(雌滝)」、右「不二の滝の上流」

 独鈷の滝の「独鈷」とは元はインドの武器だったものが密教の法具となった独鈷杵から来ています。先端の鉾の数でその呼び名が変わります。三本の鉾がある三鈷杵を弘法大師が修行の地である唐から投げ、それが刺さったのが高野山の地であったというのは有名な話。ここでは、滝の姿が一本の鉾の独鈷杵に似ているとか、滝つぼに棲む大蛇を大師が独鈷杵にて退治したとかの説があるようです。

2017年2月

黒井城跡
 舞鶴若狭道の春日インターから北近畿自動車道へ入ると右手に小高い山が見えてきます。その頂上付近が平たく、石垣のようなものも見え、山城の跡だろうかと以前から気になっていました。なにしろ、この北近畿自動車道を西に和田山まで行けば、あの竹田城跡があるのですから。
 これが黒井城跡と知ったのは丹波のガイドブックでした。なかなか行く機会がなかったのですが、前回お話しした祖父祖父堂の悲劇がこの黒井城攻略と関わっていたと知り、これは行かなくては。

 春日局の生誕地とされる興禅寺の直ぐ脇の登山口にある駐車場に車を止めいざ出発。地元の方に聞いた通り、駐車場の左右に登山口があり、右が急坂、左が緩やかなコースとなっている。お遍路さんや西国巡礼で鍛えてあるとはいえ、左の緩やかコースを選択。
 入口に国指定の文化財との看板。お見それしました。登り始めてすぐに獣除けのフェンス、丁番を開けて入るのはいいが、反対側から閉めるのは至難。桧林をしばらく進むが、これが緩やかコース?かなりのハードな登りを続け、ようやく山門のようなものが見えてくる。周りはイノシシによって掘り返されている。フェンスはきちんと閉めましょう。石踏の段まで上がってくる。曲輪の跡で景色もよく、この赤門は休憩場所に有り難い。
 先を急ごう。ここまで来ればもうすぐかと思いきや、少し登って、本丸まで200mの看板を見て、かなり落ち込む。これはもう立派な登山である。もう一度フェンスをくぐり抜けて、ようやく頂上である。30分余りの登山。
 草木も刈られ、公園のように整備されている。二度目のフェンスでこの城内をイノシシから守っているのだと実感。一番奥まったところに保月城の石碑。黒井城の別名らしい。 石垣も一部は残っていて、城の遺構を見ることが出来る。
 ここからの眺望は素晴らしい。周囲360度、殿様気分になれる。しかし、この山上に石垣を積み、城を築き、死闘を繰りひろげていた強者ども。明智光秀を翻弄し、その勇猛さから丹波の赤鬼と称された赤井直正。
 合掌。

左から「駐車場横の登山口」「獣除けのフェンス」「石踏の段の赤門」

左から「ここまで来ればあと少し」「頂上の三の丸、二の丸を望む」

左から「頂上の本丸跡」「保月城の石碑」

頂上からの眺望 左手舞鶴若狭道から中央を右手に北近畿道が走る

 城跡までの道程は人一人が通れる程度の山道ですし、整備も特段されていません。天気の良い日に、足元をしっかりとして登ってみてください。絶景ですよ。雲海の出た日にはさらに素晴らしいとのことですが、私はこの景色でもう満足です。

2017年1月

祖父祖父堂
 この聞きなれない名前の標識が幹線道路たっている。
 去年の暮、かねてより気になっていたので訪ねてみることにする。標識に従い、車一台が通れるほどの道を入っていく。道なりに歩いていくがそれらしき建物もなく、朝早いせいか尋ねる人もいない。しばらく行くと話し声が聞こえてくる。突き当りに数人の男たちが何やら作業をしている。大きな石碑の上にいる人に「祖父祖父堂」を聞くと、その取りついている石碑を指して、「これだ!」という。私は意味が分からず唖然としていると、横から年配の方が道の先を示して、あの先を右折したところにある寺の境内にあると教えてくれる。
 礼を述べ、先に進むが「これだ!」と言った男への不信感が脳裏から離れない。
 右折するとすぐにその正面にお寺が見える。想像していたよりも大きなお寺である。「寶林寺」と刻まれた大きな石碑があり、その横の石段を登り境内に入る。周囲を見渡すと右奥に祖父祖父堂の表示板が見える。
 表示板の後ろに「お堂」がある。堂というより、小屋と言った方が相応しい感じの飾り気のない建物である。しかし、その壁に掲げられた案内板を読んでちょっと感動する。

 明智光秀については、織田信長、豊臣秀吉などの戦国時代のビッグネームを語る上での最高の脇役であり、彼自身もビッグネームである。この時代のドラマでは必須の配役である。
 謀反により信長を殺し、秀吉により滅ぼされ三日天下と呼ばれる光秀ではある。しかし、所領の人々には慕われ、名君の誉れも高かったと聞くし、ガラシャ夫人の父でもある。私にはあまり悪い印象のない人物、常識人である。やむにやまれる仕業ではなかったのか、といった印象であったのが覆った。光秀は所詮謀反を起こすような人物だったのである。
 この年になって、光秀のこのような所業を知り、光秀感が変わったことにちょっと感動した一日でした。
忘れていましたが、石碑に登っていた人が「これだ!」はまさに、その通りであった。その石碑こそ、本来の祖父祖父堂が建っていたところだったのである。
 帰り道、その石碑まで戻ってみると電飾のケーブルでぐるぐる巻きになっている。来週はクリスマスか。亡き三十六人の人々も苦笑していることだろう。

写真左上から「寶山寺の入口」「寶山寺本堂」「祖父祖父堂」「公民館前に建立された慰霊碑」

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